人間の教育

個々の教授方法は置いておくとして、ここまでひ弱い人間しか育成できていないというのは、これまでのやり方のいったい何が間違っているのかとは誰もが思いをいたすところです。この根本をある思想家の言を借りて言うならば、「今の教育の不成績(ふせいせき)は計画の不十分に基づき、それは目的観の不確立に基づく。」ということなのかも知れません。目的観の不確立、それはすなわち「何のために教育を行うのか」「何のために学ぶのか」という、教師、生徒両面にわたる、「何のため」の欠如ということです。

 

伝統的にその目的は「社会国家のためである」という論と、「個人の幸福のためである」という論が戦わされてきました。前者は公立学校制度の絡みでよく出てくる意見ですし、後者は自由教育思想の流れで出てくることが多い話です。しかし、これはどちらもそれだけでは歪みを産んでしまうことが歴史の中で証明されてきました。すなわち、極度に社会的責任を強調すれば個人を社会の犠牲とする滅私奉公のような考えが横行し、一歩間違えば国家主義の再来とも成り得ますし、後者は個人主義の行き過ぎから個人の集団が国や社会をわがままで食いつぶすという事態を招く可能性があります。

 

両者のどちらにも偏らず、そのどちらも満たすことができる目的が有るとしたら、それは「社会に役立つことを自分自身の自己実現、幸福実現と正しく重ねることができる人間の育成」というところでしょうか。こう、育成目的を定めたのならば、当然、社会の構造や現状に無知でいさせるわけに行きませんから政治経済・歴史などの教授が必要で、実際の仕事を行うための技術知識とその基盤が必要で、何より社会の中で生きていくことが大切なのでコミュニケーション能力の涵養を、ある程度やるべきことが定まっていき、それぞれの科目学習も「社会の中での自分の幸福」という軸に統合されていくのではないでしょうか。